献身は、自分は死んで私の内にイエスキリストが生きる生

必ず享受すべき恵みの福音(3)

腐敗した世界と諸国が主を賛美する日が必ず到来する事を聖書は約束している。(黙示録7:9~10)裁きと呪いが終えて砂漠に花が咲き、悲しみと苦しみの無い神様の國は今も休まずに臨んでいる。その栄光を見ることを待つ者が主の身である教会である。神様の絶対主権とその方が私たちに下さった福音を純粋に信じる者はどのような姿勢で生きるべきだろうか?聖書は‘生けるいけにえ’だと表現している。(ローマ人への手紙12:1~)過ちと罪によって死んた私たちをイエスキリストの十字架で生かしただけではなく、その方と共に栄光を受けるにふさわしい者になったなら完全にキリストの為に‘献身’すべきである。新婦が新郎の為に熱心(コリント11:2)に自分を飾るように適当に足首だけを水に浸してみる水準でではなく、惠の海が自分を呑み込んでその中で素晴らしい栄光と能力と祝福を享受するところまで進んで行くのだ。

いけにえ’とは既に死んだという意味である。神様がキリストの完全な死を通じて私達に全部として福音を享受する唯一な道は私達の全部を‘死んだものとして思い’主に奉げるのだ。これが生きておられる主と交際するにふさわしい方法であり、同時に霊的な礼拝の核心である。(ヨハネ4章)ただ、この方法だけが私たちが神様に栄光を奉げることが出来るし、神様の中で永遠に楽しく喜ぶ唯一な道であることを信じるのだ。

献身’という言葉で憂欝を感じたら騙されているのだ。私としては、自分の古い人としては主に決して献身出来ないところか、その献身は結局‘自分の熱心’に過ぎない。聖書で話す‘献身’は、キリストが十字架で死なれる時に共に死んだ私の古い人を信仰で否認して、もはや、ひたすら主のみ旨が私の内で叶えるこのを望みながら自分を奉げる事を意味する。だから‘私が死んで私の内にキリストが生きること’がずばり献身であるのだ。
献身をより分かりやすい言葉で表現したら‘神様を信頼する’ともいえる。病気を治す時にも医師を信頼して自分の体を任せられるように、自分の人生と存在自体を委ねるには神様に対する自分の信仰が実際にならねばならない。神学的な同意とか教会に長く通ってるから勤めを得たのと‘自分の人生を主に委ねる’というのは違う。惠は受けたいけど一生全部を主に任せることは出来ないとしたら信じる神様がどんな方であるかを覚えねばならない。約束を成し遂げる絶対主権の神様は呼ばれたアブラハムの弱さと失敗に一度もあわてなかった。却って、彼に約束したすべては歴史の中で確かな実体として現れた。従って神様を信じるということはその方の約束を信じるのと等しいのだ。

私達の結論は御言葉か?状況か?主の約束が私たちが置かれている現実より実際であるか?私たちは小指も自分の力では上げられない存在である。主がわざわざ無能な者を呼ばれて能力を持っている者を辱める理由は、その能力が人に或るものではなく神様にあるとのことを知らせるためである。(コリント第一1:25~)というわけで主は私たちの能力を必要とされない。主の内にいる信仰だけが必要とされるだけだ。その信仰さえ主の恵みがなければ揺れるしかない。遠い未来まで堪える信仰ではなく、今日一日、今この瞬間、分秒毎に主を掴む信仰を取ろう。<続く> [福音祈祷新聞]

キムヨンイ宣教師
(巡回宣教師、LOGミッション代表)

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